garuri1127’s diary

知的快楽のためのアウトプットの場。

【疑問】死ぬ権利は何故認められていないのか。

「死ぬ権利」

大変重いテーマではあるものの、決して自殺したいとかそういう訳ではなく、純粋に哲学的なテーマとして疑問に思っている。

 

年明けに数年前に流行った「嫌われる勇気」を再読して、私は人生のコペルニクス的な気づきを得た。要約すると、「人生は生きているだけで価値がある。幸せを実感するには、他者へ貢献しているという実感を持つことが重要だ」ということだった。(詳細については、感想をまとめてみた。以下URL参照)

 shimirubon.jp

 

もう1つ重要なポイントとして、この本では「課題の分離」をあげている。どういうことかおおざっぱにまとめると、「他人からどう思われるかなど気にする必要はなく、自分の人生をどう生きるかは自分の責任で決めて生きろ」ということだと私は解釈した。(それがタイトルの所以でもあると思う。)

 

ここからが疑問に思ってしまったのだけれど、「自分の人生は自分で決めろ」というのであれば、いくら他者が「あなたは生きているだけで価値がある」といっても、自分自身が心からそう思えなければ意味がないし、極論「私は幸せな人生を送る必要がない(=死にたい)」という結論を出したとき、その自殺志願者をとめる有効な回答はあるのだろうか。

 

自殺志願者に対する回答として、最も多い回答としては、周りが「私が死んだら悲しいから、死なないで」というのが、多分一般的だと思うのだが、これは論点がすり替わってしまっていると思う。

 

「親不幸だ」というのも、「私が死んだら悲しい」理論と構造は一緒だ。しかも、人間が生まれる時、そこに「生まれたいか?生まれたくないか?」という選択肢が与えられて、生まれてくる訳ではないのだから、「死ぬ権利」が認められていないのは何故なのだろうか。

 

私は法律に詳しくないので、自殺に関して法律的な罰則がないとすれば、もしかすると一定の「死ぬ自由」は認められているのかもしれない。でも、「安楽死」についてはどうだろうか? オランダでは認められているから、技術的に「安楽死」が可能になんだろうけど、日本は法律が整っていないだけなんだろうか。「死にたい、でも苦しみたくない」という人に優しくない気がする。

 ⇒オランダの安楽死について調べる。日本の法律で「自殺」に対する項目がどうなっているのかを調べる。

 

「自殺」そのものは、死んでしまったら死者に罰則を与えることはできないというだけなのかもしれない。ただ、苦しまずに死に至りたい時、違法な薬物とかを入手する必要があるとすると、やはり「死ぬ自由」には一定の条件が付いていると言わざるを得ないだろう。ビルから飛び降りるとか、首を吊るとか、私の想像しうる範囲では死ぬまでに苦痛を伴いそうだ。「死ぬ自由」を手に入れるためには、「死ぬ勇気」も合わせ持たないといけないということなんだろうか。「楽して死にたい」というのは、わがままなのだろうか。一人で死ねないから、死を手伝ってしまうとそれは殺人になってしまうんだろう、多分。

⇒確か『高瀬舟』がそんな話のような気がする。後日もう1度読んでみる。

 

「死ぬ自由」「死ぬ権利」という概念自体が、これまであまり取沙汰されてこなかった背景には、 そもそも戦いが多かった時代は「生きること」自体が難しかったからということもあるかもしれない。でもそうだとすると、「生きるの辛いから死にたい」という人もいっぱいいたのではないかという考えもできて、理論が成り立たない。

大日本帝国憲法が制定される前は、自殺についてどのようなルールになっていたのか? 自殺する人はどれくらいいたのか?

  

 ブッダだって、「人生は苦しみである」的なことを言っていたような気がするし、「生きること(輪廻転生)からの解脱」がイコール悟りだとすれば、「死にたい」という欲求はごく自然なものに思えてくる。

⇒仏教について勉強したのが数年前なので、もう一回勉強する。手塚治虫の『ブッダ』をもう一回読みたい。

 

この問いに関する答えは、「人は何のために生きるのか」に対する答えを探るヒントにもなりそうな気がする。色んな分野の先人・専門家、ルール等がどのように、この「死」について回答するのか知りたいと思った。